おもちゃばこ

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東日本大震災 被災地見学の記録

2011年3月11日に起きた東日本大震災

その5年後の2016年、学生対象の被災地見学ツアーに参加した時の記録です。

 

あれからさらに時間が経って状況はまたいろいろ変わったと思いますが、当時感じたことをここにも書き留めておきたくて。

 

【実際に被災地に行くまで】

 「被災地支援」という言葉に空虚なものを感じていた。漠然とした言葉だけで、イマイチ実状がわからない。なんとなく仮設住宅やがれきの山の様子が目に浮かぶけど、それは写真のように切り抜かれたものであって、大変そうだとかかわいそうだとかいう感情もぼんやりとしたものでしかなかった。そこに伴う人々の毎日の苦労や終わりの見えない日々の生活の大変さまでなかなか思いを馳せられなかった。

 がんばろう日本とか言うけど、私にはなんだか、あまりにも中身がない言葉に聞こえていた。だって被災地域でない所に住んでいるわたしたちは、正直、何も頑張れることがないから。震災当初は確かに数日間の不便はあったけどすぐに復旧したし、今ごろ私たちががんばるって何を?募金?そういう意味じゃないよね?って感じだった。まだ無力な「子ども」だったのもあるけど。

 被災地では今も生活に苦しんでいる人や、家族や大切な人を亡くした傷がいえていない人もいる。「がんばろう日本」とか「絆」とか、本来被災者たちに寄り添う温かいはずの言葉が、途中からなんだか、メディアによってとりあえず多用される軽々しい言葉に聞こえてきたというのが、正直な当時の感想だった。被災地報道の在り方というかなんというか。
 それから5年。まだまだ力はないけど、あの頃よりは行動をおこせる。理解もできる。


【被災地見学】

 集合場所の仙台駅に降り立った時、あまりにも「普通」だったので、正直少し拍子抜けしてしまった。駅を行き交うサラリーマン、群れる部活の学生たち、賑わう土産物屋、駅の周りの銀行やレストラン…。まるで何事もなかったかのように、「ごく普通の街」の光景がそこには広がっていた。

 駅からツアーバスに揺られながら、なんとなく武蔵小杉駅に似ているかなぁなんて思っていた。うーん、本当にここであんな未曾有の大災害がおきたんだろうか?同じ県に、本当にまだ復興途上の土地なんてあるのだろうか?

 

南三陸町

 バスは、いつのまにか急に見渡す限りの茶色い更地に入った。突然現れた、がれきでもなく、仮設でもなく、ところどころピラミッドのように綺麗に土が積まれた、あたり一面に広がる茶色い世界。この光景をテレビ画面越しに上空から見るのでは、この、絶望を感じさせるほどに一面土だけの世界の果てしなさは伝わらないだろうな。どこまでも続く土のピラミッドは、車で横を通ると視界を遮るほどに高く積まれている。ピラミッドたちの間を車で走り抜けながら、未開拓のアフリカにでも土地を探しに来ているかのような気持ちになった。本当に。ショベルカーやトラックはいっぱいいたけど、トラックが積んでいた土を下ろすのを見ると、ピラミッドの土の量と比べて無に等しい。終わりのみえない作業に、見ている私の方が気が遠くなりそうだった。これまで新聞のニュースやテレビの特集で被災地の様子を知ったつもりでいたけれど、 「被災地」の真の現状を初めて目の当たりにしたと感じて、すごく衝撃を受けた。

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【大川小学校】

 教員児童がほぼ全員津波に飲まれた大川小学校も訪れた。5年が経った今も、変わらぬ姿で、空のホールのように開放されきってしまった1階の教室や、崩落した2回の廊下がそのままになっている。

 この写真に向かって右は山崖になっている。地震のあと、教員と児童が校庭に避難したところで、写真左後ろの方向から津波が押し寄せてきたという。児童の中には、「あの山に登ろう」と言う子もいたということだが、「地震のあとは土砂崩れが起こるので山に登ってはいけない」という大前提を守り、結局大多数が波にのまれてしまった。

 結果的に当該の山が崩れなかったことから、子供を亡くした保護者からは、山に登らせなかった教員の判断によって子供が命を落とした、という批判もたくさん受けたという。

 この校舎は、見ると辛いので取り壊してほしいという遺族と、教訓として残すべきという遺族で意見がわかれ、ひとまずあの日のまま保存されているそうだ。

校庭には献花台があり、わたしたちも祈りを捧げた。

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【防災庁舎】

 何度もテレビや新聞で見た、赤い鉄筋構造の骨組みだけが残った有名な防災対策庁舎。360度見渡す限りの更地の中にぽつんと立っているのです。

 低層階ほど損傷が大きく、建物の枠組みだけを残して、窓枠やら細い支持組織は揺れるカーテンのごとくばらばらに折れ曲がっている。鉄の非常階段は大きくひしゃげ、津波の破壊力の強さを物語っている。

 「津波が来るので避難してください」と町中のスピーカーから流れた音声は、この建物からまだ24歳だった女性職員が、若い男性職員とともに呼び掛けていた。最期の瞬間まで避難を呼びかけたその職員たちは、自分の命と引き換えに多くの住民の命を救い、そして建物ごと津波の直撃を受けて命を落としたという。なんて崇高な志なんだろう。事故や災害の際に世界からも認められる日本人の精神。自分だけ逃げださず、自分の命を賭してでも職務を全うすることが求められているけれど、実際覚悟するのにはすごく勇気がいったと思うし、これからが人生というまだまだ若い女性、それに小さい子を遺すことになる男性のことを思うと、どれほど無念だっただろうと思う。

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石巻赤十字病院

 病院駐車場の途中あたりで津波が止まり、病院自体は直接的な津波被害を免れたという石巻赤十字病院。災害の際には被災地にありながら中核病院として大きな役割を果たしたという。ここでは、災害当時に活躍された先生のお話を伺った。

 病院自体がもともと災害に対応できる造りとなっていたことが功を奏したそうで、2008年の三陸地震にも耐えたそう。地震の周期がどうとかで、建物は揺れるけど物が壊れないようになってるから医療器具も地震後すぐ使えたらしい。また、一階の広いロビーは震災時のために床暖房が入っており(患者さんを床に寝かせられる)、壁には酸素導入や透析のためのアウトレットが設置されてる。

 病院地下にある免震構造も見せていただいた。U字の構造は、新品と比べて横から見るとかなりひしゃげていた。片方向に26cmとかなり大幅(過去最大級)に揺れたらしい。でも損傷は5%であと19回は耐えられるという。ただし30~40年ごとに病院自体の建て替えが必要だそう。

 さらに、地震発生4分後14:50には災害対策本部が設置され、1時間後にはトリアージ準備?が完了していたという。3月(年度末)だったことから、医師や看護師をはじめ、どの職種の職員も新人がいない状況だったことも味方して迅速な対応ができたそうだ。

 あの日、医師や看護師たちは、何の前触れもなく起こった地震による入院患者の対応や、次々と運び込まれるけが人・病人の手当て、さらにはかかりつけの病院がつぶれてしまった患者の病気や薬の管理などに追われ、自分自身の家族の安否すらわからないままに、いつ家に帰れるのかもわからず文字通り何日も不眠不休で働いたという。

 

語り部さんのお話】

 印象に残ったのは数年後に控える東京オリンピックの話だった。「新しい競技場が2500億から1500億になった。するとどうしても、ああ政府にとって1000億なんて簡単に動かせるお金なんだなって思っちゃう」と話されていたのは衝撃だった。今まで何も知らず「復興五輪」を真に受けて、「東京五輪は被災者を勇気づけ、さらに経済効果は被災地支援に役立つ」という説明を信じてやまなかった自分を恥ずかしく思った。

 1つになろうとかがんばろうとか言いながら、全てを失い、お世辞にも復興しおえたとは言えない被災地を横目に 新しい競技場だのエンブレムだのと予算は膨れ上がっていく。被災地の人も喜んでるんだろうと勝手に解釈してたけど、全然。本来オリンピック大好き人間の私だったが、この現状を知っていたら、数年後には東京オリンピックだなんて言ってられるのか、と初めて疑問に思った。

 他にも原発の再稼働に反対するなら足りない電力はどうするのか、とよく話題に上がるけど、あの頃のままの「節電」という張り紙はもはや風景になった。町中の電気は煌々と点き、いらないイルミネーション、看板がまぶしいほどに夜の街を照らしているのを見ると虚しくなる。もう被災地から遠く離れた我々にとって節電は関係なくなってしまっていたのだ。計画停電とか震災当時すらほんの一時の犠牲しか私たちは払わずに終わった。もう、震災は過去のことになった。そのうえで、だ。そのうえで、あの恐ろしい原発事故の後でまだ原発を再稼働しようとしている。

 そんな震災にまつわることを思うと、政府への不信感を募らせている被災者の方々の気持ちは極めて自然なことだと感じた。もちろん、全ての娯楽をやめて被災地にお金を回せとは言わない。だけど、50億もあればしっかりした大病院が建つ。実際に新しい病院を見た。そしてそのうち22億は台湾からの寄付であることも知った。

 自分の力では何一つできない。国の方針も変えられないし、大したお金も寄付できない。役に立とうにも自分の身一つでは大した力にもならない。あまりにも広大な更地を前にして、自分の無力さが恐ろしくなった。

 結局はやりたいことにうまく理由をつけて正当化してるだけ。だからどんなに良いことを言ってても、空虚って思っちゃうんだな。本当は、心は一緒にいます、寄り添ってますって被災者の方たちに伝えたいのに、逆効果で、どうせあいつら他人事なんだろうなって印象を与えてしまうんだろうな。無理もないな、だって実際そうだったんだ。

 

【見学を終えて】

 あの日、家の近所で地震にあった私は、すぐに家に帰ってテレビをつけた。黒い波が家々を飲み込んでいく映像が何度も何度も繰り返されている。夜になっても翌日になっても繰り返されていた映像は、いつのまにかだんだんと映されなくなっていった。

 いまや、3月になると思い出したように被災者のインタビューや当時の映像が流れれるだけ。そんなテレビしか知らなかった私は、5年も経ったら、もうだいたい被災した土地は元通りになっているんじゃないか、なんて漠然と思っていた。

 それがひっくり返されるようだった今回の見学ツアー。もちろん、家や家族を失いながらも、新しい家を建て、残された家族と元気に新たな生活を営んでいる家庭もあったし、被害の少なかった駅前や住宅地では、何事もなかったかのような日常が流れていた。だけどそれに比べて、被害の大きかった地域では、今も失われた町は土砂がつもった更地のまま。新しい町はそう簡単には生まれず、住んでいたであろう人々は、亡くなったり避難したままで戻らない。

 ツアーを終えた直後は、ツアーで出会った他校の学生たちと、学生団体で同様のツアーを企画しようと話していた。今回のツアーで、まさに百聞は一見に如かずとはこのことだというくらい、今まで知ったつもりになっていたことを何も知らなかったと思い知らされ、また一度自分の目で被災地を視ることがどれほど自分の心に直接この現状を訴えてくるものかをも理解できた。多くの大人がボランティアでこのツアーを組み、経験談を語ってくれた。そうまでして被災地を知らない若者たちに知ってほしいことがあったのだろう。私たち学生が豊かな感性でその気持ちを受け取り、還元していくことができたら、この恩に報いることができると思った。

 学生団体企画は、その後は連絡もとりあってはいたものの実際には実行までたどり着けないまま皆卒業を迎えてしまった。直接行動に移すことはできなかったけれど、だからその代わりに、私の見学させてもらってきた写真や記録をシェアすることで、少しでも誰かの目に触れ、考えるきっかけとなってもらえたらいいなと思い、ここに記します。

 

あの日から約10年。被災地見学から5年。

被災地の復興を心よりお祈りいたします。

 

 また、被災地見学に携わってくださった方々に感謝いたします。